「緑谷、緑谷」
「轟くん、どうしたの?」
「次の授業、移動教室だってよ」
「え?…ほんとだ、ありがとう」
とことこ、後ろから近寄ってきた轟の手元にはいくつかの教材とノートが抱えられている。トイレに立っている間に教諭が伝えに来たのだろう、正面を見ると黒板にもその旨がご丁寧に英語で書かれていた。机の上に準備していた授業のセットを同じように抱えて立ち上がる。行こうか、と声を掛けると、頼む、と返事があって、並んで歩き出した。
窓から見える新緑はいっそう青さを増して、その隙間を縫った日光が鋭く射し込み教室の床をやく。轟が転校してきて、およそ一ヶ月になる。生活には慣れてきたみたいだけれど移動教室の場所まではまだ覚えていないし、そうでなくとも雄英は施設が多いから、一緒に行くために待っていたのだろう。
「視聴覚室って何すんだ」
「えっとね、先生が洋画好きだからよく観るんだ」
「へぇ」
「今日はたぶん前回の続きだから、ちょっと分かりづらいかも」
「そうか」
南棟の視聴覚室は少し遠いから早歩きで向かう。コの字型の校舎はこういうときどうしても大回りせざるを得ず、計算を誤るとひどい目に合ったりする。教室はまだ何人か残っていたが大丈夫だろうかと、ちょうど反対側に見える北棟を不意に見やった。
あ、と、声が漏れたのはそこに良く知った白金の髪が見えたからだ。左隣でつられた轟が同じように窓側へ目をやるのが分かる。二人して歩みが遅くなって、ぶわり、南風が吹いた。
「…行こうか」
「ああ」
視線が北棟から離れて前を向く。歩むペースを戻し、残った視聴覚室までの距離を縮めることに専念する。
時間が止まったみたいに息が出来なかった。
彼は、目が合ったのだろうか。少なくとも緑谷は合わなかった。ただ、確かに赤い双眸が僕たちを捉えた瞬間があって、奇跡が、起きることを考えてしまった。
「…目の色、変わんねぇのな」
そうだねと、言うべきかどうか、今の緑谷には判断できるだけの材料がない。いつも正解や最良はあちこちに散らばって、簡単に掴むことをさせてくれなくて、轟の心が傷付くばかりなのではないかと、思う。変わらない瞳の色に、何をおもうのだろう。
けれど今は、出会ってから初めて得られた爆豪への言葉にどこか安心している己を自覚していた。轟焦凍はいつであっても口数はさして多くない。かつての記憶があれば一層顕著で、いろんな関わりを極力遠ざけようとする。この一ヶ月間だって、緑谷意外と言葉を交わしたところを見ていない。
だから、隣にいる轟も、これまでの轟と同じく爆豪を大事に思っているという自信がいつも弱い。誓って疑う訳ではないけれど、どうしたって不安になってしまう。その緑谷にとって、爆豪との繋がりに確信を得られる彼の言葉は貴重で、大切だった。なるべく傷付かないでと友人の幸福を願う心とは矛盾しているのは分かっていても。
沈むでも浮つくでもない気持ちを抱えて観た映画はちょうどクライマックスだったけどあまり頭に入ってこなかった。
「話、分かった?」
「ああ、観たことあるやつだった」
「えっ、そうなん、」
「…緑谷?」
視聴覚室から明るい廊下へ出ると明暗差でくらくらする頭を振って誤魔化す。マニアックではないが有名でもない映画を轟が観ているというのは率直に意外だった。きっかけを教えてもらえるだろうかと、思わず見上げた頭の向こうへ現れた一人を見て息を呑む。
伝えたいことは、不自然に言葉を切った自分の顔を見返す轟と一瞬合った目線を背後に流す、それだけで十分だった。
「おい半分野郎」
紅白が振り返りきるのを待たずに爆豪の声が肩を掴む。本当に、どの世界でも最初の呼び方が変わらないことを笑えばいいのか嘆けばいいのか。なんて僅かな現実逃避をしている間に、形の良い眉が不愉快そうに寄る。たぶん返事がないからだ。助け船を出そうにも緑谷の場所から轟の顔は見えない。
廊下の向こうの方で知らない誰かの声が響いているのに、時間が止まったみたいに静かだ。蝶腕に抱く教科書が汗にふやけていく。
「返事ぐらいしろや」
「何の用だ」
間髪入れず切り出された短い返事は、拒絶。話すことはないと言外に冷たく含んでいた。半分野郎なんて下手をすればどっかの人権団体でも出て来るようなものすごく失礼な呼びようで、初めて話しかける相手としては当然の反応だと思う。
たぶん爆豪もそう考えたのだろう。ともすれば怒りそうな轟の返事に顔は歪めながらも罵声はなかった。
だが緑谷は目前の光景が普通の場面ではないことを知っている。轟の温度が、呼び名などではなく複雑な複数の原因によるのだと、知っている。いまどんな目をしているのかは分からなくても。
「……その目、自前か」
話しかけて来ておきながら、たっぷり置いた沈黙の末に吐き出された声は舌打ちと共に。視界の隅で、轟の指先がぴくりと動く。言葉の意味を、考える。
くらくら、眩暈がする。どっちだ、爆豪勝己。
「…、…触ってみるか」
さっきよりも長い沈黙の末、轟の半袖が乾いた音を立てた。殊更ゆっくりと一歩の距離を詰めながら爆豪の手首へ伸びる。爪の切り揃った指先が肌に触れる、その寸前で、パシンと二つの掌が宙へ浮いた。
「ッ他人の目玉なんざ触れっかよ」
低く唸る声が轟までの残った距離を潰し、襟元を乱雑に掴み寄せる。個性のない身体でも爆豪は腕っぷしが強く、口だって回るくせに手足が先行する。あちこちで喧嘩するほど喧嘩っ早く粗暴な一方で、雄英に進学するくらい成績優秀な、学校でも近所でも大人の手に余ると有名なガキ大将だった。
ただ、高校に入ってから弱いものに少しだけ優しくなった。そこに緑谷が含まれてるいのかどうかは未だ判然としないけど。
「そうか」
轟の表情が緩んだのを、吊り上がった赤い両目越しに見た。言葉を失った爆豪が一つ呼吸を噛み殺す間にシャツを掴む手を剥がし、襟を正す。伸びた背筋は緑谷の良く知る背中だった。
「なあ爆豪」
「……ンだよ」
「お前、」
目の色が変わらないと零した横顔を思い出す。あ、と口を開きかけた緑谷の代わりに鳴り響いたのは六限をしらせるチャイム。完全にログアウトしていた現実に引き戻され、時間割表と現在地を瞬時に思い出す。一気に凍る背筋とまったく動じない二人を叩きあげて戻った教室には当然、既に次の授業担当である相澤が教壇についていて、課題のペナルティを受けるに至ったのだった。
「うう、古典苦手なんだけどな…」
「そうなのか」
「うん…あんまり」
帰る準備をしながら肩を落とす緑谷を、轟はけろりとした顔で見ている。古典のノートを足しただけなのに、心なしかいつもよりリュックがずしりと重い。たぶん、彼にも科目の得意苦手はあるのだろうが、元の出来が違う。何度生まれ変わってもこの根本的な能力値が変わることがないことは喜ばしいようで、時たま無性に虚しくなる。
「ごめんね、お待たせ!」
なんてことは考えたところで仕方が無い。鼻の奥を啜ってから鞄を背負ったのと、机の上に轟の鞄が置かれたのは同時だった。
「…課題、一緒にやって帰らねえか」
「えっ」
「予定あるとか、嫌ならいい」
「嫌なわけないよ
でも、その、珍しいなって…どうしたの?」
少し高い位置から落ちてくる言葉が途切れる。前髪の隙間から覗く目は自分の鞄だけを見ていて、言葉を探しているのが分かった。轟は一人でやる方が早いはずだし、勉強や課題を一緒にやったことは確かに多いけれど、それはハイツアライアンスがあったからだ。実際この雄英高校に寮はなくて、緑谷もせいぜい飯田と定期試験勉強を一緒にやる程度だった。
息を吸う音がして思考から顔を上げると、かちん、と二色の瞳と目が合った。
「…俺が悪ィのに緑谷まで巻き込まれちまった」
能力値は変わらない。でも、そんな言葉を丁寧に探す不器用さとやさしさも変わらない。格好悪く頬が緩んでしまうのを誤魔化すためにリュックをおろして、馬鹿だなあ、と軽口を叩く。
「あれは三人の責任だよ」
気遣いでも何でもなく心からそう思う。付け足すと、両目が二度瞬きするところで一緒に小さく笑った。止められなかった緑谷にだって責任はあるし、なんなら、一番悪いのは時間と場所を踏まえなかった幼馴染ではなかろうか。
「ありがとな、緑谷」
頬の緩みが伝染したらしい轟の柔らかい表情は久しぶりに見る。そのまま図書館へ行こうか相談をしたけれど、話が出来なくなってしまうから教室でやることにして、机を向かい合わせに動かす。
そういえばもう一人のペナルティ受給者はどうするのだろう。絶対に一緒にやるはずもないと分かっていながら教室を見渡すと、ちょうど廊下から爆豪が入ってくるところだった。がたがた鳴る音のせいか、こちらを見た双眸が不機嫌に染まる。無視することも出来なくてへらりと笑うと、気付いた轟も爆豪の方を見やって、一秒も視線を留めずに机を動かす作業に戻った。
それがどうにも駄目だったらしい。凶悪な顔をした幼馴染がざりざりに毛羽立った気配を纏ってこちらへ向かってくる。いや、そりゃそうだろう。なんでだ友人よ。似たようなことを体育祭で、個性のある方の体育祭でやったはずで、ああもうややこしい。
「てっめぇ…何だその態度はよォ
」
「別に」
「あーあー!待ってかっちゃん
」
「うるっせェ引っ込んでろクソナード
」
「緑谷を馬鹿にすんな」
「いい、いいんだよ轟くん
」
「ハッ、課題も一人で出来ねぇのかよ」
「緑谷は俺たちに巻き込まれただけだろ」
この騒乱の中でも平然と座り、平然と古典のノートを鞄から取り出していたはずの轟がむっとした顔で爆豪を見上げる。そういえば彼もけっこう手が早い方だ。気持ちは非常にありがたいが今はこじれる原因でしかない。なにより、いつになく口を開く轟の様子に、教室に残った何人かが面白半分で見ているのが居た堪れない。
本日二度目、爆豪が轟のシャツを掴む。無理やり立たされたせいで椅子から派手な音が鳴った。どうするのがいい。この状況にどういう行動が最適なんだ。混乱する頭の片隅で、不意にこのまま放ってみるのも荒療治ながら一つの案ではと思い立って腕を組んでみる。
轟が爆豪の胸倉を掴み返して、珍しく赤に動揺が混ざる。どう、なるのだろう。やっぱり落ち着かなくて組んだ腕は早々に解くと、いつ取っ組み合いになっても対応できるよう肩の辺りに留めておく。
「文句あんだろ、…言えよ」
声で殺すと言わんばかりの唸りとともにシャツの皺が張って、これ以上ないと思っていた二人の距離が数センチ更に近寄る。このままどちらかがぶん投げてもおかしくない。
吹奏楽部のチューニングや運動部の掛け声ばかりが満ち溢れた静まり返る教室の緊張は、文字通り音を立てて弾けた。
「いッ…
」
「爆豪、お前…」
鈍い衝撃の音源は二人の額からだと、見えない位置にいるクラスメイトからは分からないかもしれない。爆豪は急に蹲って、轟の額も少し赤くなっている。別に石頭という訳ではなかったはずだから、彼もそれなりに痛かったはずだけれど、そんな素振りは悟らせないのが格好いいなあ、なんて。
そんな暢気な考えは、次の瞬間に微塵も残らず吹き飛んだ。
「お前だって古典は苦手だろ!」
「アぁ
」
「あッ
」
「あ?」
緑谷の反応から失言に轟が気付くまで、あと七分。