生活音。
人が暮らす上で、自然と鳴る音。
足音、扉を閉める音、話し声。
一人でただずっと本を読んでいるだけではどれも生まれない。
エスにとっては、ほとんど無縁といって良かった言葉。
静かに本のページを捲る時、少しだけ鳴るものがエスの生活音。
そんな時が延々と流れていく事に、かつては何の違和感もなかった。
今はもう知っている。
どこからか現れて、どこかへ行ってしまう旅人。
彼女がもたらす音をエスはもう知っている。
その上で、改めて思う。
彼女がいないこの部屋は、なんて静かなのだろうと。
今日はここに来るのだろうか。
いつもの笑顔と共にやって来るのだろうか。
どこか垢抜けない、素朴で愛嬌のある旅人の顔を思い浮かべる。
(…すっかり期待するようになってしまったわね)
エスはそこで一度旅人の事を頭から切り離し、書棚に向き直る。
旅人がいつここに来るかは分からない。
いつまでも旅人に思考が占有されている状態は精神衛生上あまり良くない。
自分の情緒というものが酷く乱れがちである事をエスは自覚している。
本を読もう…。
本を読んでいる間は、それに没頭する事ができる。
今日は、どれにしようか。
なるべく気分が重くならない本がいい。
そう思いながら書棚を見回していると、見慣れない物が視界の隅に入る。
それが何なのかエスが近付こうとした時、
「エスー!!!!きたよー!!!!」
それまでの静寂を破る大きな声が暗がりから聞こえてきた。
「走らなくても大丈夫。転ぶわよ」
「やっほーい!!」
旅人が訪れる時はこの調子が続いているので、エスはここしばらく毎回のように忠告するのだが、どこまで聞いているのやら定かではない。
気を付けるようエスが話しても彼女は、だって会いたかったから、と笑みを返してはぐらかす。
その気持ちは私も同じよ、と最近のエスは旅人に伝えるようになった。
そうすると、旅人は目を輝かせてあれをする。
今日も多分してくる。
「エス、さみしくなかった?つん」
「……そうね。けれど待っていれば、貴女はいつか来てくれるから」
「もちろん来るよ!エスのためなら!つんつんつん」
「ただそれは正直止めてほしいのだけれど」
旅人はコミュニケーションと称してよくエスの体をつつく。
エスは言葉を選ばず幾度となくそれを切り捨てているのだが、一向に止める気配がない。
「えー?ならエスも私をつついてもいいよ?」
「そういう話ではないわ」
「まあまあ騙されたと思ってさ、ひとおもいに、ささ。どうぞ」
慈愛の笑みを浮かべながら両手を広げる旅人をすり抜け、エスは先程見つけた物へと向かっていく。
それは書棚の本と本の間に挟まっていた。
「あぁんつれない」
「……貴女はこれに何か心当たりはある?」
エスはそう言って一枚の紙を旅人に見せる。
見慣れない物の正体は、ともすれば見過ごしてしまいそうなちっぽけなものであった。
「ん?いやぁぜんぜん」
「……何となく、貴女が書きそうな文があるけれど」
エスは紙を旅人に渡す。
「秘密の部屋を探せ!!」
旅人の明朗な声が響き渡った。
「そんなに私っぽい?」
「勢いに任せて書きかねないとは思うわ」
「でも違うよー」
旅人があっけらかんと否定するので、エスはおや、と思った。
旅人は嘘をつこうとしてもすぐ顔や声に出る事をエスは知っている。
それとも、旅人の事を理解しているというのは自分の思い込みだったのだろうか。
会わない時の間で何かが彼女を変えたという事もあるかもしれない。
だがしかし、そもそも旅人以外にここに来訪者なんて…。
どさどさ。
唐突に聞こえる異音にエスの思考は遮られる。
「えっ」
音の方を見ると、棚の本を掴んでは床に落とすといった流れを繰り返す旅人の姿がそこにはあった。
「どうしたの。何かの発作?」
「え。もちろん秘密の部屋を探してるんだよ?」
「当然みたいな風に返されても困るわ」
「秘密の部屋とか探さない理由がないよ!楽しそうでしかないよ!」
「はぁ」
「本棚の中をくまなく触ったりしたら、レバー的なものが作動するかもしれないよ」
「恐ろしく曖昧ね」
「とにかく探してみようよ〜。気分転換だと思って!ね?」
「……そうね」
「決まり!」
会話の流れで、いつの間にやらエスも謎の探索に参加させられていた。
旅人は鼻唄を歌ったりしながら書棚を触る。
旅人は何もかも唐突だ。
唐突に現れて、唐突に何かを始めて、唐突にいなくなる。
……元気そうで何よりよ。
エスは心の中でそっと呟く。
かつて今のように元気でいられなかった旅人。
それを知っているから、エスは彼女の明るい姿を何より愛しく思う。
旅人が楽しそうなら、付き合うのも悪くない。
私の世界に音を連れてくれるのは、貴女だけなのよ。
そんな事を思いながら、エスは旅人と共に棚を調べ始めるのだった。
●
「エスー」
「何?」
本を取り出しながら、旅人はエスに話しかける。
返事は一見素っ気ないもののように思えるが、エスがいつもしっかり話を聞いてくれている事を旅人は知っている。
自分の事を受けとめてくれるエス。
何度もそれに救われているのを忘れた事は決してない。
「エスは秘密の部屋がどんなのだったらいいと思う?」
「そうね……」
答えを探しているのか、エスの言葉はそこで途切れる。
なんて返してくるだろうか。
エスが考えをめぐらせている間、旅人は答えを予測する。
旅人の目から見て、最近のエスは自分の思いを率直に伝えてくる事が少し増えたように思う。
ならば、エスは自分と同じ事を考えて口に出してくれるだろうか。
旅人は作業を中断し、真っ直ぐエスの目を見つめながら答えを待つ。
「……外に繋がっている扉がある部屋がいいわ。そして貴女と外の世界へと飛び出すの」
「!」
返事を聞くや否や、旅人はエスに駆け寄り、勢いよく抱擁する。
「私も同じ事思ってた!!」
「ちょ、ちょっと…。くっつかないで」
「だって嬉しいんだもん!!これはがぜん秘密の部屋を見つけないと!!」
「……なら早く調べてない所を調べないと」
「はぁ〜い」
旅人はそう言ってエスから離れる。
元の場所へと戻る前に、ちらと視線を向けると、心なしかエスの頬にほんのり赤みが差しているように思えた。
ドキドキしてくれたのかな。
旅人はエスの気持ちを想像する。
そうしているうちに、自然と自分の体もなんだか火照っているように感じてくる。
……私はちょっとドキドキしたよ。
旅人はその気持ちをそっと胸の内へとしまう。
そうして旅人は自分の思いを再確認しながら、また本棚を調べ始めた。
膨大な量の本を床に置いては、空いたところの棚に触れてみる。
手応えは一向にない。
「ねぇ、一緒に外に出て…。その後は何をする?」
しばらく時間が経ってから、旅人はまたエスに話しかける。
「……貴女は集中力がないのね」
「話しながらの方が楽しいじゃん!ねぇ、なにする?」
「……私ばかりが答えてしまうより、先に貴女の意見を聞かせて」
「そう来たかぁ」
旅人は一旦作業の手を止めて考え始めた。
エスと一緒に、この部屋から外に飛び出す。
そうしてどこに行こう?
「そうだなぁ。せっかくだし、女の子っぽい事を二人でしたいよね」
「女の子らしい事、ね……」
「二人でタピタピしよう!!」
「えっ何それは」
「あぁごめん。タピろうって事だよ」
「何の説明にもなってないけれど」
「タピオカジュースが載っていないとは。ここの本もまだまだだね」
「不当な評価を下すのは良くないわ」
そうして旅人は改めて、女の子の間で流行しているとされているジュースについてエスに説明をする。
閉ざされたこの部屋は世間というものとは完全に隔絶されていて、娯楽があまりにも少ない。
旅人はそんな世界からエスを連れ出して、普通の女の子として共に生きたいと強く思っていた。
「そうしてタピったら、カラオケなんか行ったりしてね」
「……歌を歌う所よね?」
「エスは何か歌を知ってる?」
「残念だけど、何も」
「外に出たらいっぱい覚えられるよ。見たいなあ〜。エスがシャウトする所」
「何故激しい歌を歌う前提なの」
「そして頭を激しく振る!!!!」
「振らないから」
「えー。じゃあエスは何がしたいの?」
「……少し考えさせて」
エスはそう言って考え込む様子を見せながらも本棚を調べ続ける。
それを見て旅人も慌てて作業に戻った。
「……貴女と一緒に、学校に行きたいわ」
少し時間が経った後、エスはぽつりと漏らす。
「学校かぁ〜。どうして?」
「未来に期待を膨らませながら、様々な事に触れて貴女と青春を送る…。理想論かもしれないけれど、それが叶ったら素敵だと思ったの」
「青春……。いいね!すっごくいいと思う!!」
夢や希望に溢れた活力のある人生の春。
そんな煌めいた宝物のような幸せを誰しもが持ち得る訳ではない事を二人は承知していた。
だからこそ、それが美しく見える。
旅人はエスと共に机を並べて授業を受けたり、とりとめのない会話をしながら通学路を歩く姿を夢想する。
そうして毎日、同じ時を過ごす。
もうエスに寂しい思いをさせることはない。
そんな空想が叶ったら、どれほど幸せなのだろう。
「エスならきっと、制服も似合うよ」
旅人はエスに笑いかける。
「……馬鹿」
恥ずかしげに俯くエス。
旅人はそんな彼女を誰よりも愛しいと思った。
●
ガコン。
「あっ!」
そろそろ自分の周りの本は全部下ろしたかとエスが思っていた時、何か得体の知れない音と旅人の驚く声が聞こえてきた。
「ま、まさか本当に秘密の部屋が…!?」
「ここ触ったらなんかレバー的なものがガコンってなった!!」
「まさかあんな曖昧な言い分が正解だったなんて…」
エスがそう呟くと、地響きと共に壁の一部が崩れ、やがて空洞が出来た。
二人は呆然とその様子を見つめ続けていたが、やがて我に返った旅人が先に歩き始める。
「い、行こう!エス!!」
「ちょっと待って」
エスは興奮しきりの旅人の肩を掴む。
「ど、どうして止めるの!!」
「いよいよ秘密の部屋の存在を明らかにされると、その危険性についても考えなくてはならないと思って」
「どういうこと?」
「…そうね。例えば、部屋に入った瞬間にレーザー光線で焼き殺されるかもしれない」
「すごい部屋だ」
「可能性はゼロではないわ」
行く先は全くの未知。
一つの部屋で世界が完結していたエスにとってそれは希望と同時に恐怖でもある。
エスはその事を今更ながら痛感する思いだった。
皮肉なものね、と声に出そうになる。
この部屋から外に出てみたいと願った事なんて数えるのも馬鹿馬鹿しくなるほどあるのに。
いざその機会が舞い込んできて、悪い想像が次々と沸いてくる。
ここにいる限りは、一時でも旅人と過ごす事が間違いなく出来る…。
「私はきっと外に繋がってると思うよ!怖いかもしれないけど、一緒ならきっと大丈夫っ」
「でも…」
「んー。じゃあ何か物を投げてみようか?とりあえずそれでレーザー光線の有無は入らなくてもわかるよ」
「ここには本くらいしかないわ。捨てていい物なんて…」
「何かないかなあ」
旅人は部屋を見回す。
「私は全てを把握している訳ではないけれど、粗雑に扱っていい気分のする本がここにあるとは思えないわね。私にとって本は…」
「エゴ王写真集…?」
「ブン投げましょう」
そういう事になった。
「えい」
空洞に向かって旅人が写真集を放ると、パタンと静かな音が鳴る。
何か仕掛けが発動したような気配はなく、ただ床に落ちたといった具合だ。
「大丈夫そうだね。いくよ、エス」
「……ええ。貴女を信じるわ」
二人は手を取り合い、空洞をくぐり抜ける。
エスは目をつぶり、自分を引っ張ってくれる旅人の手に全てを委ねた。
「……エス。目を開けてみて」
どのくらいそうしていただろう。
旅人の手を強く握ったまま、目を開けようとしないエスに優しい声がかかった。
「…何があるの?出口は…?」
「目を開ければわかるよ。ほら」
旅人に促され、エスは静かに目を開ける。
そこは殺風景な部屋だった。
扉は見当たらず、本棚もない。
ぽつりと一つの物があるだけ。
「ダブル……ベッド……」
「ベッドだねえ…」
言いながら旅人は服を脱ごうとする。
「ちょっとちょっとちょっと」
「あはは。じょうだんじょうだん」
「……もう」
エスがあまりにも慌てて制するので、旅人は可笑しくなって声を出して笑う。
そういった話題を匂わせるとエスはいい反応をしてくれるので、旅人はこれまでにも何度かそのようないたずらをした事がある。
本当に初心なんだから、とからかうと拗ねてみせるエスが旅人には愛らしく思えてつい繰り返してしまうのだ。
「……扉はないみたいね。また何か仕掛けがあるのかしら。…それとも」
「ねえねえ。せっかくベッドがあるんだし、二人で一緒に寝ようよ。掛け布団もあったかそう」
「また貴女はそんな事を」
「お泊まり会みたいで楽しいと思うよ。私先に入るー!」
「ちょっと。転ぶわよ」
「おおおー!!すごいふかふかー!!」
一目散にベッドへ飛び込む旅人を見て、エスは思わず笑みを溢す。
旅人の大胆さの前には、色々と考え込んでいる自分が時々馬鹿らしく思えてしまう程だ。
「早くエスも来て!」
「そう慌てないで…」
促され、エスはゆっくりとベッドに身を横たえた。
優しい暖かさに包まれ、心が安らぐのを感じる。
側にいる旅人の温もりも直に伝わる。
意識すると体が火照ってしまう。
気恥ずかしさを紛らすため、エスは旅人に背を向けて話しかける。
「…暖かいわね」
「…気持ちいいよね。このまま眠れそう?」
「それは少し難しいわ…」
「エスが本を読んでくれたら、私は眠れるかも」
「子供みたいな事を言うのね」
「まぁここにはエゴ王写真集しかないんだけど」
「ここに火気があるなら今すぐにでも焚書したくてたまらないわ」
あはは、と旅人は朗らかに笑う。
そうして二人はしばらく言葉を交わさず、お互いに背中を預けながら横になっていた。
「エス。もう寝ちゃった?」
「…いえ。起きているわよ」
エスの返事を確認した旅人は、体をエスの方へ向ける。
「エスも、こっち向いて…」
「それは…」
「お願い。ダメ…?」
「…分かったわ」
旅人の甘えるような声を無視するのも忍びなく、エスはゆっくりと体の向きを変えた。
間近に現れる旅人の顔を視界に捉えた瞬間、鼓動が速まるのを感じる。
「えへへ。すっごくドキドキするね」
「…とても睡眠どころではないわね」
「エスのドキドキって音、聞こえるよ。私のドキドキも、聞こえる?」
「ええ。よく聞こえるわ…」
お互いの鼓動を確かに感じるために二人は黙り込んだ。
二人はお互いの存在を、これ以上ないほど噛み締める。
ゆっくり、ゆっくりと時が流れる。
「このまま眠れたら、きっとすごくいい夢が見られるよね」
「…もしかすると、今の私達がもう夢の中にいるかもしれないわよ」
「…そうかもしれないね。二人でベッドの中にいるくらいだもん」
「なら、ここで眠ってしまったら、目覚めてしまうかもしれないわね」
「でも、きっと向こうでも私達は一緒だよ」
「絶対?」
「絶対だよ。行けばわかるよ」
「なら、安心して目覚める事ができるわね…」
現実が何処で、夢が何処にあったとしても。
二人が満ち足りていれば、それがどちらであっても構わない。
エスはそっと旅人の背中に腕を回す。
やがて旅人も同じようにエスを抱き寄せた。
「エス。大好きだよ」
「私もよ。旅人さん」
二人の間にこれ以上の言葉は必要ない。
お互いの気持ちを受け止め合った二人は、そのまま眠りに身を任せた。
その先がどうか幸せな世界でありますように。
そう願いながら。
●
チャイムの音で目が覚める。
どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
教室で眠ってしまうなんて、私らしくないわね…。
私は眠り目を擦りながら視線を横へ向ける。
そこには夕陽に照らされながら幸せそうに眠っている女の子がいた。
旅人さん、と呼びかけてためらう。
何故私はこの子を旅人だなんて呼ぼうとしたのだろう…?
私が考え込んでいると、大きなあくびが聞こえてきた。
どうやら、目を覚ましたらしい。
「あれ、エス…?」
そう呼ばれて、私は起きる前まで見ていた夢の事を思い出した。
光の行き届かない、閉ざされた部屋で旅人を待っていた自分。
旅人と秘密の部屋を探していた自分。
そして、旅人と一緒に眠りに落ちた自分。
そうだ。
私はずっと、この子と時を過ごしていた…。
「って、あれ。…あはは。寝ぼけちゃったみたい」
「…案外そうでもないかもしれないわよ。旅人さん」
「……そっか」
私に優しく語りかける彼女は、夢で見ていたものと全く変わらない、愛しい笑顔を浮かべていた。
「ねぇ、私ね。すっごい夢を見たんだよ」
「奇遇ね。私もよ」
「一緒に帰りながら話そう?すごく濃い夢だったから、長くなっちゃうかもしれないけれど」
「そうね。私も貴女とその話がしたい」
「決まり!」
彼女は鼻唄を歌いながら、軽やかに教室を出る。
「ようし。校門まで競争ー!!」
そして彼女は、まだ鞄に教科書を入れている私に向かって、大きな声で宣言した。
「走るのは止めましょう?転ぶわよ」
私はそう言うのだが、いつも聞き入れてもらえない。
最も、それにももう慣れてしまったが。
廊下を駆け抜ける彼女に置いていかれまいと私は慌てて走り始める。
すっかり誰もいなくなってしまった放課後の校舎に、私と彼女の足音が小気味よく響き渡った。
(了)