世間のルールに則り構築されている世界でもすべてを統一することはできなくて、少しずつズレが生じて不協和音を響かせ回るから面白い。正義を振りかざし、これが正しいと言われれば、そうなんだくらいにしか捉えないのは特に意味はない。あたしはあたしで、あなたはあなた。ひとつになんかなれないから、あたしとあなたは違っていて、モラルや建前を飲み込みながらその時の最善を尽くすだけ、それだけ。すべてが一緒なんてアンドロイドみたいで嫌だね。プログラムされてインストールされてって、あたしたちもいつからかアプリケーション。

ルールを破ってこそでしょうみたいな思想でもなく、ただたんに自分の頭で考えて吟味して答えを出してくちに出せるならくちにして無理なら無理で適当に合わせる。あたしとあなたは違うからと線引きすることは簡単でそれに個性と名付けて優越感に浸ることもできるだろうけど、生憎、そんな趣味も持ち合わせていない。

自由なところでは自由に、だれかに規制されてしまうのはくるしいな。見たくなければ見なくていいし、知りたくなければ調べなきゃいい。仕方ないと思うものは仕方ないと柔軟に対応。女子力とか養う前に空気読んで。時間は待ってなんてくれない、人生を一定のスピードで進ませる。乗り遅れるのは勝手だけど巻き込まれるのは御免。

安心してふやけてしまったら終わって、終わったまんま始まらなくなってしまう。終わりが始まる、終わりの先の世界には始まりが待っているから。


会いたいひとはいるのに会えていない現実は忙しなく時間を奪い、若さを吸う。時間は作れる、会いたければ会える時間が生まれる。必要とされていればなんとでもなる。始まりは無意味のように見えて価値がある。何でも味わってみないと本質なんてわからない。あたしを作るもの、あたしが選んで作ったあたしという作品を制作する途中。馴れ合って、惰性から抜け出せないこそ無意味。わからないひとはわからなくてよくて、わかるひとはわかればいい。


確実なものも不確実なものも一度咀嚼し、あたしの中に溶け込ませないと始まらない。世界なんて見たいように見れば、それまでだから。